「今でも登り棒オナニーがやめられません」なぜやめられないのか?
出典:ぐらんで さんのイラスト
あなたは登り棒でオナニーをしたことがあるか?ぼくは、ふと考えた。今日、失業保険の定期申請手続きで新宿ハローワークに行った帰り道、とある公園に登り棒が見えた。登り棒、登り棒…。登り棒オナニー!!早速、Bダッシュで家に戻り、ネットで調べる。すると、あるお悩みに辿り着いた。
今でも登り棒オナニーがやめられません
なるほど。今でもということは、昔からやっていたプレイ(オナニー)スタイルなのだろう。やめられませんということは、本人は止めたいと思っていることがわかる。オナニーを止めることは難しいが、登り棒オナニーは止めることができそうだ。しかし、どうやらそう簡単ではないようだ。
同じような人いますか?
次に彼は「同じような人いますか?」と問いかけている。それに対する回答を見ると「同じ人を探すよりも、止める方法を探してください」と上手いことを言う人もいた。一番多かった回答は、「公共の物を使うのは止めよう」だった。もっともらしい正論だ。だが、公共の物だから興奮するのであって、家の中に棒を立ててオナニーしても興奮しないのである。
同士を求めるのも、本人は止めたくても止められない自分の変態行為を理解してくれる人を求めているのだ。これは自然な欲求である。頭ごなしに否定されたり、「ああしろ、こうしろ」と上から目線で説教されても絶対に治ることはない。その答えがどんなに正論であろうとも。まずは同じ変態の目線に立たなければ解決の道はない。悩んでいる相手と同じ温度のお風呂に入ることが重要なのだ。相手と同じお湯に浸かって、相手の言うことをまずは全面的に肯定する。「うん、わかるよ」「公園で全裸になると気持ちいいよね」って。まずは頷く。相手の味方になる。「ぼくも同じことはしたことないけど、きっと全裸で登り棒オナニーしたら気持ちいいだろうね!」と、共感することが大事なのだ。
分かっているのに止められないのはどうしてなのか?
やめたいけどやめられない人は、上のサイトを読んでほしい。要点をまとめたものは以下。
分かっているのにやめられないのはなぜか?それは脳のコントロールの喪失に原因がある。この例で見ると、初めて公園で全裸になったとき、一時的に気分が高揚したり、緊張や不安が和らいだ経験をすると、脳がその感覚を報酬(ごほうび)だと勘違いしてしまうことがある。一旦、脳内にご褒美回路ができ上がってしまうと、しだいに行動が習慣化し、暴走、またはエスカレート、最終的にはコントロールの喪失(アディクション)となって、本人の意志では止めることができなくなってしまうのである。
やめられないのは意志の弱さや性格の問題ではありません。「コントロールできない」ということそのものがアディクションの「症状」なのです。苦しんでいるのは何よりも本人であり、必要なのは「叱責」や「処罰」ではなく、「助け」なのです。
引用:やめられないのはなぜ?
まとめ
全裸登り棒オナニーで悩む彼が、「同じ人はいますか?」と聞くのは「助け」を求めているの心の叫びだ。誰にも共感されない孤独な叫びだ。そんな彼と同じような性癖を持った変態オナニストたちは今日も夜な夜な公園の登り棒に跨り、自らの満たされない欲望を登り棒に放出させていると思うと、なぜだろう。悲しくなってくるのはぼくだけだろうか?
「秋深き 隣は何を する人ぞ」
今日は松尾芭蕉の俳句で〆させてもらうことにする。
隣に住むの人は秋の夜長にいったい何をしているのだろうか?まさか、全裸で…。なーんてことはないよね?変態行為もほどほどにね!
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