超能力が使えるんじゃないかと試してみる
スプーンは曲がらない。コインは消えない。箱の中身を透視できない。これらはぼくが自分には超能力があるのかないのかと、幾度となく挑戦した結果である。
念を飛ばす
この歳になっても、自分には超能力があるんじゃないかとときどき思うことがある。
だから思い出したように、ボールペンやテレビのリモコンに向かって念を送ってみたり、目覚まし時計の秒針を止めようと気を送ってみたりする。しかし、ぼくがいくら額に青筋を立てて手のひらから念を飛ばそうが、それらは微動だにしないのだ。
そもそも手のひらから念や気が出ているのかどうか怪しいものだ。念は目には見えないのだから。
不意打ち
目を閉じてみる。ふっと力を抜いて安心させたところでいきなり目を開ける。パッと。
もしかしたらぼくが目を閉じている間に何かが起こっていて、いろいろな物がもとあった位置から少し移動していたりするんじゃないかと思って、また目を閉じる。耳をすます。静寂。物が移動しているような気配はない。残念だ。
と、安心させたところで、不意打ちで目を開ける。これの繰り返し。
トイ・ストーリーの見過ぎである。
超能力の代表
瞬間移動、透視、念動力。どれもこれも超能力と呼ばれる超能力の代表格である。
通常の人間にはできないことができる。憧れ。小さいころからのあこがれだ。
自分は特別な人間なんだという思い込み。
テレビでは、特別な能力で敵をやっつけるアニメやドラマが放映されている。あーんパンチではない、ライダーキックでもない、もっと超能力超能力した力で敵を倒すやつだ。
スプーン曲げの応用で相手(敵)の腕をへし折る。瞬間移動でラスボスの部屋まで一気にたどり着く、初回放送がいきなり最終回。透視によって難題を瞬時に解決する(寝ながら)痛快!解決ニート。いろいろ考えてみたが、どれもおもしろくなさそうな感じがする。ありきたり感満載だからか。
超能力をこえて
超能力ブーム。懐かしい響きである。
思うにぼくの半生は「もしかしたら超能力が使えるんじゃないか」という妄想に縛られていたのではなかろうか。と思う。
超能力が使えるかもしれないという妄想は、ぼくの人生の隙をついて、現れては消えていくかげろうのようであり、その先には蜃気楼が見えている。ぼんやりと。
ありもしない幻影が超能力という名を借りて、ぼくを飲み込んでしまう。行けども行けどもオアシスにたどり着くことはない。蜃気楼の果てにさまよう旅人のように。
いつしかぼくは大人になって、自分には超能力がないことを知った。その超能力に付随するさまざまな特殊能力もないことを知った。それはとても残念なことだった。
しかし、しだいにそれは間違いだということに気がついた。凡庸で平凡な「通常の人間」であることが、とても恵まれているということに。そしてそれはすばらしいことであり、幸せなことなんだと理解している。
超能力が特別なのではない。今では何もない通常の人生が送れることに感謝している。
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