【小説】田舎教師のように努力は本当に報われないのか?
努力は必ず報われると信じていますか?
必ずしも努力が報われるわけではないということを教えてくれた小説です。
田山 花袋(たやま かたい)が1909年に上梓した小説です。
今は、青空文庫(ネット)で無料で読むことができます。
あらすじ
日露戦争の戦況に一喜一憂している明治の中期、中学を卒業した清三は、親友の父のはからいで、貧しい父母を養うために高等小学の教師となる。
師範学校に進もうとする友人たちの中で、自分だけ田舎教師として人生を終えるのかと焦燥にかられる清三だが、彼には、まだ、その境遇からいつかは抜け出ようとする意欲もあり、清三は中学時代の仲間と同人誌「行田文学」を発刊。
しかし同人誌は4号で廃刊、仲間たちからは文学の情熱が失われ、芝居見物や女遊びに
はしゃぐようにになっていく姿を清三は寂しい気持ちで見つめる。冬休み、実家に帰った時、親友の郁治を訪ねた。
ひそかに慕っていた美穂子と郁治が親しく文通している事を知り、恋愛も学問も消極的になる自分を辛く感じるのであった。
しかし「自己を尽くし潔く運命に従おう」という心境になる。
それからの清三は、絵を描いたりオルガンを弾いている時間が多くなり、行田の友人とも会う事も少なくなっていた。
教師になって3年目には、上野の音楽学校を受験したが失敗に終わった。
羽生に帰った清三は、虚しく寂しい生活から立ち直ろうとする。
過去を忘れ教え子たちを愛し、健康を取り戻し、野心を捨て両親の面倒を見、昔の友達も復活させようとする。
しかし、清三は不治の病にとりつかれ、次第に衰弱して寝たきりとなり、この田舎も日露戦争の戦勝で湧きかえる中、一人さみしくこの世を去って行くのだ。
引用元 田舎教師——–田山花袋
中でも注目するのは、上野の音楽学校に行くシーンだろう。
片田舎の音楽教室の片隅で一人オルガンの練習をする清三、東京に出て、この今の状況から脱出したい思い一心に練習をする。
その試験当日、緊張する清三。
いざ挑んだ試験が、一生懸命に練習していたオルガンではなく、なんと一度も弾いたことがないピヤノ(ピアノ)だったのだ!
ピアノとオルガンの違い
「ピアノ」と「オルガン」は、いずれも鍵盤楽器ですが、鍵盤を操作して演奏すること以外は根本的に全く違う楽器といえます。
・「ピアノ」は、鍵を押すと、鍵に連動したハンマーが対応する弦を叩き、音が出る弦楽器、もしくは打楽器と弦楽器の特徴を併せ持った打弦楽器です。
・「オルガン」は、鍵を押すと、鍵に連動したパイプに加圧した空気を送ることで音が出る管楽器です。
基本的に音の強弱を微細に行うことはできませんが、安定して持続する音を出すことが可能です。
引用元 「ピアノ」と「オルガン」の違いは? | 1分で読める!! [ 違いは? ]
もちろん試験に落ち、田舎へとぼとぼと帰るしかなかった。
それから元の田舎教師に戻っては普段の生活に戻る。
小説、田舎教師は最初から最後まで、じっとりとした梅雨の時期にはピッタリのちょっと暗い小説です。
報わない努力
生きていれば、ときには努力が報われないこともあると思います。
人はなぜ報わない努力をしてしまうのか?
それには、圧倒的な情報不足が起因しています。
例えば、すでにCDが出ているのに、カセットテープの研究をしているだとか。
新しい技術が世に出てきたにも関わらず、新しいことには興味を示さず、役に立ちそうもないことに心血を注ぐ様子。
この小説の主人公の清三も試験に使われるのが、オルガンではなく、ピヤノだと知っていれば、試験を受けなかったことでしょう。
なぜならあまりにも無謀だからです。
到底受かるとは思えません。
オルガンとピヤノの違いを理解していれば、これがいかに無謀な試験だということには、清三本人も気づくはずです。
こういったことは、現代においても往々にして起きます。
webのことにまったく無頓着な人が、未だに多いことや、本や雑誌が売れないのに今まで通り、広告といえば、新聞やチラシや雑誌に頼っている会社は多いです。
webを活用するすべを知らない訳ではないのでしょうが、どうしても馴染みのあるもので安心しようとする。
そんな弱腰では、業界自体も衰退してしまいますよ。
誰もやったことがないことをやってみたい!
今、これを書きながら、そんな思いに駆られました。
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