ねぎとねぎ愛の盲点
ぼくは無類のねぎ好きで有名な人間で通っている。名前をねぎ太郎に改名したいくらいにねぎ愛の強い男である。
ねぎは脇役
ねぎは決して主役にはなれない。そういう星のもとに生まれてきた運命の植物なのだ。人間とってねぎとは、薬味の一種だという認識を持っている人は多い。ねぎまなどは良い例で、名前こそ「ねぎま」だが、ねぎとねぎの間に鶏肉がしっかりと挟まっている。ねぎと鶏肉では、断然、鶏肉が勝利するだろう。
ねぎはわき役に徹してこそ、味わいのある演技ができるのだ。
ねぎ愛の強い男
ぼくとねぎとの馴れ初めは、「いつの間にか」である。「いつの間にか」気づいたら好きになっていた。そして「いつの間にか」気づいたらお互いに付き合っていたし、それから結婚もしていた(ぼくの中の世界では)。
そう、ぼくとねぎとは結婚しているといってもいいほど生活を共にしてきた。ぼくの隣りにはいつもねぎがいた。そういう歌があってもいいくらいに。
出会いと別れ
これほどねぎ愛の強いぼくではあるが、いずれは別れの時がやってくるかもしれない。出会いがあれば別れがある。それは初めから決められていたドラマのシナリオのように。
ぼくが老人になって味覚や趣向が変わり、離婚することは今は考えられない。とても。
ぼくからねぎを、いや、おねぎを、ぼくからおねぎを振ることなどできない。それはなぜなら、ぼくにとっておねぎとは、ぼく自身だし、ぼくの人生のようなものだから、それを否定することは、ぼくがぼく自身の人生を否定することに繋がるからなのだ。
おねぎのことを理解する
もしも、別れがあるとするならば、それは死別か、おねぎがぼくのことを嫌いになって、ぼくとの付き合いを解消したいと願うときに他ならない。
死別はしょうがない。ねぎが好きだろうが嫌いだろうが、誰もその運命からは逃れることはできない。だとすると、おねぎがぼくを振る場合しか、ぼくとおねぎとの別れは理屈上ないわけで、例えば、おねぎが女性だとする。おねぎ=彼女や妻だ。ぼくのカミさん(妻)がおねぎであるとするならば、突然切り出される離婚話にぼくは驚くことだろう。
女性でも男性でも離婚を切り出す場合には、その何か月も下手をすると、何年も前から相手にはわからない蓄積された不満や、すれ違いによるうっぷんが、溜まりに溜まって離婚という形になるのだから。ぼく両親がそうだったように。
ぼくがおねぎに振られることとは、すなわちぼくがおねぎのことを理解していなかったからであり、理解できていなかったからである。もちろん相手のことを100%理解することなど不可能に近い。それでも相手を100%理解するためには(100%に近づくためには)自分を理解する、自分に目を向ける、自分という存在について考えるしか方法がない。自分を理解することが、相手を理解することにつながってくるのではないだろうか。
悲しいかな、ぼくはおねぎを100%理解できていない。おねぎを種から育てあげ、来る日も来る日も水をやり、害虫を駆除しながら、頃合いをみて刈り入れ、生産ラインにのせ、バイヤーを通し、スーパーに並べられ、それではじめてぼくの知るねぎになる。
ぼくは相手の育った家や育ててくれたご両親や幼なじみ、学校の先生やクラスメイト、仕事仲間を知らない。それらを知らずして何が愛か。なにが理解か。
おねぎの盲点
これではおねぎに浮気(不倫)されるのも時間の問題だろう。ぼくはねぎを見ているようで見ていない、ねぎの一部しか知らない。
人間同士なら浮気をされる理由は、相手が根っからの浮気性だったという例外もあるが、何かしら相手への不満が引き金になっている場合が多い。その相手が感じている不満が何なのか、敏感に感じ取ることができる男性や女性は少ない。それは日々の生活で感じ取り、気づくことができるはずだが、人は目では見ていても見えていない。目では見ていても脳がそれをとらえることができない、だまし絵ような、盲点がある。
ぼくのその致命的な盲点によって、彼女の大事な、とても大事なことが見えていなかったとしたら、ぼくは一生後悔することになるだろう。
ねぎのことを考えながら、いつの間にかねぎと人間を同一視してしまいました。
賀正
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