責任と無責任のあいだ
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サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ。ニッポン無責任時代の植木等をご存知だろうか。あのスーダラ節で有名な。
はっきり言うと、ぼくはあまり知らないし、映画を観たこともない。(スーダラ節は知っているが)
無責任サラリーマン
植木等の話はさておいて、今日はぼくのことを話そう。
そう言って自分で自分のことを自分語りするほどナルシシズムで気持ちの悪いことはない。そんなものは芸能人のブログだけで結構である。
ぼくは無責任な男である。無責任なサラリーマンでもある。いつの頃からか、ぼくには責任感という概念が存在しない、いいかげんなところがあって、すぐに逃げ出す癖ができた。人はそれを無責任と呼ぶ。
無責任読書スタイル
ぼくは読書が大好きで一時期20代のころ仕事をしないで毎日、推理小説を読み耽っていた時代があった。今でも覚えているが、朝から晩まで好きな本を読みながら生活できたことに感謝しているし、とても充実した日々だった。ここに感謝の感を表明したい。
そのころの読書スタイルと今は変わって、大量(数十冊程度)の本を買ってきて、何冊も並行して読んでいくというスタイルに変化した。さなぎから羽化した蝶が花から花へ飛び回るように。
この読書スタイルが良いか悪いかはわからない。ぼくはこれを「無責任読書スタイル」と名付けている。
でも気に入った本があると、じっくりと最後まで読み通す。読書に限っては少しは責任感があるのかもしれない。
いや、それは違う。せっかくお金を出して買ったのだから読まないと損だという損得勘定の卑しさから無理やり読み切っているだけに過ぎないのではないか。費用対効果を気にするケチな男なのではないか。自分のことは自分ではわからない、だから誰かに教えてほしいのだけど。客観的に。
責任と無責任のあいだ
人は二種類の人間に分けられる。それは責任感のある人間と無責任な人間だ。
前者は社会的に信頼され良い父親になるが、無責任な人間は父親にすらなれない。さらに責任感のない親は一般的にダメ親になるケースが多い。断言しているが、根拠はない。あくまで勝手な想像だ。ぼくはこれを「責任と無責任のあいだ」と呼んでいる。
現実の世界では、とくにサラリーマンの世界では無責任はご法度である。時間を守れない、約束を守れない、自分で言ったことをやらない、これではすぐにクビになってしまうだろう。
時間を厳守し、約束を果たし、有言実行する。
すばらしい人間だ。立派な社会人だ。みな、そんな大人になろうとする。どこかに無理をしながら、残業で身体を痛めつけ、平気で思ってもいない、おべっかを使い、休みたいのに休まない、やりたくもないことをやる。
みんな、もう少し無責任に生きてもいいんじゃないかな。もっとゆっくり、ゆったり、のんびりと。
春に舞う蝶のように
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