これは奇跡か!一周回って奇跡なのか!
奇跡はいつも起きている。それを奇跡と呼ぶのなら。
(これは宗教とは一切関係がない記事ですのでご安心ください)
一周回って奇跡となる
奇跡はいつもぼくらのすぐそばをとおり過ぎている。
奇跡とは要はその事実に気づくか気づかないかだけの問題でしかなく、普通に生活しているだけでは意識することすらない。肩をそっとなでる風みたいに。
これは人間だけにとどまらず、動植物全般、地球に存在するすべての原子にいたるまで、常にどこかで奇跡は起こっている。そもそも、その現象を奇跡と呼ぶか呼ばないかで人間は議論するが、これは議論するまでもなく、奇跡かも?とちょっとでも思えば、それは即座に奇跡となる。奇跡とは考えるのではなく、感じるものだからだ。
注意深く生きてみる
おはようからおやすみまで、どこかに奇跡はないかと、町中を歩きまわる必要はない。しかし奇跡は待っていても気づきにくい(起こらない)。だからこちらからアクションを起こして、自らの手で奇跡を起こせばよい。簡単だ。
ぼくなら、昨日すでに奇跡を起こしてきたばかりである。それをことさら、あれやこれやと逐一説明することなどしたくないが、それでは読者の方に申し訳ないので、簡単に言わせてもらうと。
奇跡は自分で起こせる
昨日の朝、急いで仕事場に向かうぼくの前に手袋が片方だけ落ちていた。ぼくはその左手だけの毛糸の手袋を拾い上げ、手近な街路樹の枝にさしておいた。
そして今日の帰りにその木の枝を見ると、手袋がなくなっていたのである。手袋がどうなったのか、経緯は定かではないが、これは奇跡と呼べるだろうと思う。何なら、交番に届けてもよかったが、それはさすがにやりすぎだと思い、やめておいた。
奇跡の押し売りはいけないからだ。
自然は奇跡が起きやすい
都会暮らしのコンクリートジャングルのなかでは、奇跡は起きにくい。正しくは、起きてはいるが、認識しづらく見えづらいのである。
虫や野生動物の世界では、毎日奇跡の連続で、生きていること自体が奇跡だと、人間の目から見て、そう思うことがある。身近なところではアリなんかがいい例だ。
たとえば公園にアリをいじって遊んでいる子どもがいたとする。その子どもに対して「そんなことしちゃアリがかわいそうだから」と注意して、アリを子どもから守ってあげる。
子どもにはアリで遊ぶことも教育上必要なことだろう。しかし、ここは子どものことよりもアリを助けることが、ぼくにとっては優先順位の高いタスクなのだ。どうかわかってほしい、子どもよ。
最後に助けたアリたちがぼくに向かってこう囁いた。
「ありがとう」って
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