もしもこの世に悪い人がいなかったら

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世界一、温和な男がいた。

男は思った。この世界の人間が、みんな温和だったらどんなに良い世の中になるのだろうと。

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この世に悪人はいらない

毎日、事件や事故が起こるこの世界において、温和な人ほど貴重な存在はいない。日本でいうと東北圏の人が比較的、温和な人が多いのではないだろうか。そんな温和な人が集まる中でも、一番温和な人がポツリと言った。「この世に悪い人はいらない」と。

 

この世の悪い人が全員いなくなってしまえば、平和で過ごしやすい毎日がおくれる。だから、悪人は必要ない存在なんだと。

悪人のいない世界

もし悪人がいなかったら、もしみんな良い人だったら、本当に良い世の中になるだろうか?どんな小さな悪事も行う人がいない世界。譲り合いの世界。

 

領土問題などありえない。尖閣諸島だって、竹島だって、北方領土だって、どうぞどうぞ、自由に使ってください。いえいえ、遠慮しないで、ほら。と、韓国とロシアが譲ってくる。日本も負けじと、どうぞどうぞと相手国にお譲りする。そこに経済摩擦は起きない。

善人だけの世界

もしこの世に善人しかいなかったら、警察や自衛隊や軍隊やミサイルや核兵器はいらない。そこには人種差別もない。いじめもない。競争もない。刑事ドラマもない。恋愛だって、騙し合いや駆け引きをしたり、嘘をついたりする人がいなくなれば、今よりも傷つく人が少なくなるだろう。もちろん不倫は絶対に無しだ。

 

よって、週刊文春もポエムやペットの記事などを特集するしかなくなる。あとは自然をフューチャーすれば、悪にはならない。「今日の河川」や「今日の富士山」あたりを目玉記事に持ってくれば、大丈夫だ。内容は褒めちぎり記事しか書けない。誰かの批判や批評は、悪につながるため書くことはできない。といっても、みんな良い人たちばかりだから、そもそも悪口が思いつかない。

 

悪を知らずにぼくらは生まれた、悪を知らない子どもたちさ。

悪の存在価値

資本主義自体もなくなる。お金さえもなくなる。物々交換すらなくなりそうだ。価値の交換が極端にやりづらくなる。飢えていても助けを呼ぶこともできない。人に頼るということは、すなわち他人の負担になってしまうからだ。だから善人であればあるほど、苦しくなる。そして、ゆくゆくは少しずつでも悪を認めざるを得ない。悪の存在価値を。

 

ご近所からネットまで、他人のしたことを批判する人たちがいる。悪いことをして刑務所に入る人もいる。弱いものをいじめて楽しんでいる人もいる。暴力を振るう人もいる。悪を見て見ぬふりをする人もいる。反対に正義という名のもとに他人を攻撃してくる人もいる。これらは全員、見ようによっては悪である。とても善ではない。

 

自分が悪の被害にあってないから、そんなことが言えるんだ。自分の身内や家族に不幸があったらそんなことは言えないはずだ。たしかにそう思う。誰しも他人事なら傷つかない。

 

そんなこととは何なのか。ぼくは思う。悪とは表裏一体であると。光と影であると。

影のない人間

影のない人間は存在しない。だから人間から影(悪)を無くすと、その人間自体が消滅してしまうのだ。だからって悪事を認め、許すことはできないだろうけど。でも悪があるから人は生きていけるのだということが頭のどこかにあれば、少しは悪に対しての対応の仕方も変わってくるのではないだろうか。

 

ぼくは思う。善と悪は、それ自体がメビウスの輪なのだと。