シェアシェアシェアの時代
なんでもシェアする時代になったけど、昔もシェアは当たり前のように行われていたはずで、分けることはみんなをハッピーにする。料理だってそう、家だってそう、仕事だってそう。金だって、そうそうそう、シェアシェアシェアの時代が来たのだ。
何でもシェアする
余ってるなら他人に分け与えたほうがいい。これはぼくの親に教わったことであり、小学生のときに先生から教わったことでもある。とくに今は「個」に生きる人が多い時代になってきている。個性が大事とか、アメリカかぶれよろしく、何かと自己主張をする。自分を前面に出してくる。俺が俺がの精神は押しつけがましく、営業で言うところの押し売りに近い。
よく考えてみたら、それは何を隠そう私自身である。ことに気づく。
地獄の長い箸
地獄の寓話に長い箸の話がある。それは長い箸ではご飯を食べることはできないが、互いに食べさせ合えば、食事ができるという話なのだが、それはそっくりそのまま、今のシェアブームに通じるところがあるような気がする。
分ければ天国、分けなければ地獄。同じことなら分けなきゃそん、損
なのである。
どこまでシェアすればいいのか?
日本がまだ貧しい時代の人々は、他人に分け与えることが当たり前のことだった。中学のときの歴史の教科書にそう書いてあった。ぼくはそれをただボーと眺めては、そうなんだ、大変だったんだ、今日の給食なにかな~、と集中力の散漫さをまき散らしていたのであるが、最近になって、シェアシェアシェアとアホな魔法使いの呪文のように、耳にタコ焼き入れたらアツーなるくらい聞かされている。テレビをつければシェア。ラジオをつければシェア。新聞を読めばシェア。ネットを見ればシェア。
いったいどこまでシェアすればいいのか???
ぼくの父親はシェアするのがとても嫌いでした。それはご飯を食べるときに知ったことなのですが、「ちょっとそれ食べさせて」が、とてつもなく嫌いな人でした。だからぼくは、小さい頃からシェアには臆病なのです。
「食べたいなら自分で頼め」そう言われた記憶があります。
分けることへの渇望
シェアとはノスタルジーあり、シェアとは黄昏である。
ぼくが思うシェアとは、どこか古臭く、田舎臭い戦後の日本を連想させる言葉であって、お金持ちはシェアなどしないと思っているが、それは間違っているのではないかと感じている。富裕層ほどシェアを求め、渇望している人種はいないのではないだろうかと。
これは勝手な想像だが、金持ちほど孤独で「個」に生きる存在はないのではないだろうか?
個から分への渇望である。
しかし、視点を戻してみれば、ぼくという個は、いったいどこまで他に分けることができるのだろうか。それは、わからない。わからない。わからない。
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